江戸川区の街道と水運

 江戸時代の主要往還のひとつに 水戸佐倉道があります。江戸日本橋から千住を経て日光へ向かう日光道中に付属する街道で、千住宿で日光道中から分岐して新宿に至り、それより金町・松戸へ 向かう水戸街道と、小岩・市川・船橋を経て佐倉へ向かう佐倉道に分かれていました。水戸佐倉道というのは千住から新宿までの道筋で、さらには水戸街道と佐 倉道の総称にも使われていたようです。いずれも江戸と常総を結ぶ要路で、水戸街道は金町の江戸川畔に金町松戸関所、佐倉道は小岩の江戸川畔に小岩市川関所 が置かれていました。

 文政年間に成立した『新編武蔵風土記稿』は、「水戸街道新宿町より南に折て、曲金村、鎌倉新田、小岩村、小岩田村、伊与田村、小岩市川関所船渡、対岸は下総国葛飾郡市川なり」として、佐倉道が水戸街道新宿からの分岐であるとしています。その分岐点に現存する石造道標は安永二年(1773)の造立で、「左水戸街道、右なりたちば寺道」(成田千葉寺道)と刻まれています。同じく新宿町の下河原(現、高砂六丁目)に現存する元禄六年(1693)の道標には「さくら海道」と刻まれています。このことは、江戸中期以降に成田山や千葉寺へ参詣する人々の往来が頻繁であったことを示すと同時に、元禄以降この新宿から分岐して小岩で江戸川を越える道筋が、佐倉道あるいは佐倉街道として定着していたことを示しています。

 この新宿を通過する道筋は、その起源を鎌倉街道(下総道、下総国府より鎌倉に至る)とする説(『増補葛飾区史』上巻、葛飾区役所、1985年、605頁)もあり、少なくとも戦国時代には伝馬制の整備された街道であったことが、永禄11年(1568)や天正10年(1582)の小田原北条氏の家臣遠山丹波守直景の出した伝馬手形に、「葛西新宿、但是は臼井迄」とあることからも明らかです(『葛西城』葛西城址発掘調査報告、葛西城址調査会、1983年、389頁)。つまり、武蔵国あるいは相模国と常総を結ぶ要路として早くから整備されていたと考えられます。臼井への道筋は、おそらくはこの佐倉道の道筋に近いものと考えられます。

 ところで、この佐倉道と同じく江戸から小岩市川関所に至る元佐倉道とよぼれる道筋があります。『水戸佐倉道文間延絵図』 には、「元佐倉通り逆井道、江戸両国橋え道法三里」と記されています。両国から堅川の北岸沿いに東へ向かい、現在の旧中川、かつての中川を逆井の渡しで 渡って、現在の江戸川区をほぼ直線で北東に進み、小岩市川関所の手前で佐倉道に合流するものです。『水戸佐倉道文間延絵図』には、この合流地点、下総側か らみれば分岐点から小岩一里塚(昭和の中頃まで残存、現存しない、現在の東小岩三丁目付近)に至る区間が描かれています。この「元佐倉通り逆井道」の道筋は、明治期からは千葉街道と呼ばれ、ことに江戸川区中央の八蔵橋以東は、現在も主要道路のひとつになっています。明治10年(1877)の下小岩村の「明細帳」(石井家文書)に、 「古ヘハ元佐倉道ト唱ヘ、本村ヨリ八幡町ニ至リ房総通路ナリシヲ、明治八年中二等道路千葉街道ト改ム」とあり、この明治八年の改称以前は、この道筋が元佐 倉道とよばれていたことがわかります。おそらくは近世を通じて元佐倉道の名称がおこなわれていました。『新編武蔵風土記稿』には、「元佐倉道とて本所堅川 通り亀戸逆井を渡を渉り、小松川村小名四ッ又と云処より両路に別れ、左して下総国市川村に達す」とあります。四ッ又(四股)は、現在の荒川・中川の開さくによって失われたところですが、この分岐、実際には交差ですが、これを右にとれは、今井の渡しを渡って下総行徳へ至ります。

 管見する限りにおいて、この元佐倉道の成立を示す史料はありませんが、名称からすれば佐倉道に先行する街道という印象を 受けます。しかし、戦国時代以前にこの道筋のあったことを示す史料は見あたらず、周辺集落の形成もきわめて未成熟であったと思います。また、戦国時代には 新宿経由の佐倉道がすくなくとも臼井まで伝馬通行の要路として成立していたと思われることから、同時期に並行して街道の体をなしていたとは考えにくいと思 います。なぜなら、逆井渡しを渡る小松川経由の元佐倉道の方が、新宿や千住を経由する佐倉道よりも短距離であり、途中から船路も利用できることから、これ が整備されていれば早くから至便の総武通路として発展していたはずだからです。したがって、名称の上では先行を窺わせるものの、成立起源は新宿経由の道筋 を遡るものではないと考えます。

 『墨田区史』によると、隅田川以東の開発は、明暦の大火(明暦三年、1657)をひとつの転機とする江戸の町並みの拡張による本所の起立(造成)に はじまるといいます。『墨田区史』には、「竪川や横川等の堀割を通じ、小名木川や源森川を開削整備してまず元来の湿潤地の排水を図ると同時に、掘り揚げ土 をもって湿地帯を埋め立てて土地を築き、その上に道路や堤を設けて画地、すなわち町割りを造ることであった」とあります(『墨田区史』前史、墨田区役所、1978年、304頁)

 やはり文政年間の『葛西志』によれば、「竪川は、これも浅草川の枝流にして、本所一之橋より、逆井渡迄、東西に通じたる川なり」であり、「此川及下に出せる横川十間川は、万治三年(1660)本所の地割を定められし頃、徳山五兵衛重政等がうけたまはりて新に疏通ありし川なるよしものにみへたり」(巻之二)とあります。『新編武蔵風土記稿』(巻二四)亀戸村の項に、「東の方中川に傍(となり)たる所は竪川の南にも少く差出たり、こは飛地の如くなれど、竪川堀割あらざりし前は其地の続きたるを以て、今も飛地といはず」とありますから、竪川は村境を無視して開さくされた直線の堀割でした。『葛西志』によると、宝暦五年(1755)に本所道役をつとめた者の記録に、万治二年(1659)に もと柳橋のあたりと逆井の渡しとおぼしき渡し場の二か所で狼煙をあげ、これによって竪川を掘ったということです。この記述のみにしたがうことはできません が、竪川の東端が逆井の渡しの跡であることから、この竪川開さくの折りの逆井の渡しは、現在逆井の渡し跡として知られている旧西小松川新町にあったことが 窺えます。そして、竪川の北岸沿いに整備された竪川通りは、この逆井の渡しに繋がるものでした。逆井の渡しは、『葛西志』には「こは隣村逆井村なれば誤り 称せしならん」とありますが、『新編武蔵風土記稿』に「元逆井村にありし渡しなるを以て、今も逆井の渡しとよべり」とあるように、もとは北隣の逆井村に あったものが、その後西小松川村に移転したもののようです。

 ところで、『御府内備考』によれば、本所中之郷の竹町の項に、竹町の渡しは「古来水戸佐倉筋往来の船渡にて」とあり、 「原庭町」の項に、古来は「水戸佐倉道」の道筋にあたっていたが、「佐倉街道竪川通りえ新道」ができたので、こちらは往来も少なくなり、町もさびれてきた とあります。また。「元町」の項に、「古来佐倉街道の儀は、当町東の方中之郷業平橋より同所竹町渡船場え通候往還にて・・・・その後竪川道え唯今の佐倉道 御付替相成候に付」とあります。

 この中之郷竹町も原庭町も元町も、吾妻橋東詰で現在の墨田区吾妻橋一丁目から東駒形一~二丁目付近、ここから東にしばらくいくと業平橋になります。おそらく『御府内備考』のいう古来の「水戸佐倉筋往来」あるいは 「佐倉街道」というのは、吾妻橋(安永三年架橋、1774年)と並行して明治期まで続いた竹町の渡しを渡り、業平橋のあたりから北上して、寺島村から、四ツ木村を経て新宿へ至る道筋と、業平橋あたりを東へ進み、亀戸村から逆井の渡しを渡る道筋で、これらが竪川通りに新道ができたために、こちらを通らなくなったというのです。

 この新道が竪川通りである確証はありませんが、竹町の渡しそのものがさびれたとすると、渡し場そのものを含めて新しい道筋ができたと考えられますから、この新道は両国橋で隅田川を渡る竪川通りそのものと考えることができます。両国橋は、明暦の大火(三年、1657)の後、隅田川以東の開拓が決定し、江戸市中と墨東地区との連絡のために隅田川に架けられた橋(『墨田区史』前史、327頁)で、 大火の翌年万治元年に架橋奉行が任命され、よく二年の暮れに完成しています。開府して間もない時期、自然の要害ともいえる河川に橋を架けたことは、その連 絡通路としての意義を重要視していたことになります。当時は、わずかに東海道の関門である六郷橋と、北への通路である千住大橋があったに過ぎませんでし た。とすれば、この両国橋の架設と、竪川開さくとによる竪川通りの造成は、ひとり墨東地区との連絡のみならず、東金や佐倉方面への通路としての意図がな かったとはいいきれないように思います。その道筋は、逆井の渡しを渡るもので、渡しの対岸は西小松川村の新町でした。ちなみに、その後隅田川に架けられた 橋は、元禄六年(1693)の新大橋、同11年の永代橋、そしてさらに後れて安永三年(1774)の吾妻橋を数えるだけです。

 逆井渡しから小岩にいたる道筋は、船橋以東の東金街道の整備が慶長末年あたりとすれは、その前後あるいはそれに引き続く 万治二年あたりまでのほぼ五〇年間に順次整備され、竪川通りと両国橋の架設によって、江戸から東金に至る直線に近い道筋、そして船橋で分かれて佐倉へ向か う道筋がひとまず完成したと考えられます。

江戸川区の文化財 1994(通巻10集)
■発行・編集 江戸川区教育委員会 より抜粋