すみだ橋めぐり


橋はかたる

 墨田区内には、隅田川にかかる橋をはじめ多くの川にたくさんの橋がかかっている。そして、人々との交流、文化、文学にかかわりを持ってきたのです。


桜橋
 昭和55年11月に工事に入り、昭和60年3月に完成し、4月から一般に使用されました。日本で初めての歩行者専用橋として、X型の美しい形態の橋は墨 田、台東両区にまたがる名所になっています。桜の季節、早慶レガッタ、隅田川の催し時には多くの人が橋の上から見物します。また桜橋は災害の発生したおり の緊急避難場所としての役目も果たすといった、多目的に利用できる橋です。


水神大橋
 昭和59年に工事を開始。墨田区と荒川区の道路防災連絡橋としての役割を持っている。
 橋の長さは157mで、完成は平成6年。


吾妻橋
 橋は昭和6年に架けられました。
 そもそもの吾妻橋は、明和の大火後、安永3年(1774)春、長さ76間、巾3間の木橋で架けられました。明和の大火の時、橋のないために多くの人々の 命を失ったことから、住民たちの架橋の要望が強まったのですが、いろいろな理由で幕府は橋を架けませんでした。しかし民費で架橋するならということでやっ と許可しました。そこで町人たちは寄付金を集めて、当時としては珍しい町人の力で橋をかけました。したがって一人二文の渡橋賃をとったといいます。橋の名 は大川橋、江戸城の東にあたるところから俗に東橋と呼んだと『葛西志』は書いています。後、吾妻橋となったのは、吾嬬神社(立花1丁目)の参道にかかる橋 だからと言われています。
 吾妻橋は、墨田区と台東区をつなぐ昔からの動脈だけに文学作品によく現れます。芝木好子の『葛飾の女』永井荷風の『吾妻橋』夏目漱石の『我輩は猫である』堀辰雄の『水のほとり』森鴎外の『百物語』高見順の『東橋新誌』とまあここに挙げ切れぬほどです。
 また、歌舞伎では『夢結蝶鳥追』の一場面になるほど、吾妻橋は両国橋と並んで隅田川の歴史と文化を刻む橋といえましょう。


厩橋
   一両が花火間もなき光哉   其角
 昔のように両国橋中心ではなく、今は厩橋と駒形橋との間、言問橋と桜橋との間の2会場に分かれて打ち上げられます。
 厩橋は、明治7年に有料橋として民間工事により架設されましたが、赤字続きで地元で持てあまし、東京府に寄付してしまいました。
 明治22・26年と架けかえられ、34年には鉄橋になりましたが、橋床が板張りだったため、大正大震災では焼けて使えなくなり、昭和4年9月に現在の橋が完成しました。
 厩橋の台東区側には、江戸時代に幕府の厩舎があったところから、この渡しが「御厩の渡し」と呼ばれ、それが橋の名にもなりました。なお今、「うまや橋」と呼ぶ人が多いようですが、江戸っ子は「おんまい橋」と呼んでいました。


蔵前橋
 蔵前橋は、大正大震災後の復興計画で、大正13年9月着工、昭和2年11月に完成しました。ところが橋の周囲の街路敷地ができないため3年も遅れて昭和 5年3月まで使用が保留されました。たまたま同年3月24日、東京市の復興状況をご覧のため巡幸された天皇が、震災記念堂(現、東京都慰霊堂)にお立ち寄 りになり、お帰りに蔵前橋の渡り初めをなさるという珍しいことになりました。
 江戸幕府の米蔵が台東区側の隅田川岸に沿ってたくさんあったことから、付近の地名が蔵前となり、これが橋の名前にもなりました。


両国橋
 この橋は万治2年(1659)徳川幕府によって、本所・深川(現墨田区・江東区)の市街地建設のため架設したのが始まりです。江戸城防衛を第一とし、隅 田川に橋をかけようとしなかった幕府が、明暦の大火の災害に驚いて、まず両国橋架橋に踏み切ったことは大変意義あることで、やがて新大橋や吾妻橋もかけら れていきました。
 初めは大橋、後に武蔵と下総の両国に架かる橋という意味で両国橋と呼ばれました。木造で長さ約174mありました。現在の橋は昭和7年の架橋で、最初の架橋地点よりも100mほど上流にあたります。
 両国橋といえば、赤穂浪士大高源吾と俳人其角との橋の上での出会いの場面が思い出されます。源吾は子葉といって其角の弟子でしたが、その余りに尾羽打ち枯らした姿に、「年の瀬や川の流れと人の身は」と其角が問いかければ、吉良家討ち入り前日の子葉はすかさず「あした待たるるその宝船」と答えたという講談等にでてくる場面。さらに歌舞伎で、吉良上野介 を討ち果し、雪の両国橋を意気揚々と引上げる赤穂浪士の姿。史実にはなくとも絵になる場面です。今、橋袂の児童遊園に『日の恩やたちまちくだく厚氷』の子 葉の句碑があります。

  東京の街の憂ひの流るるや
    隅田の水は灰色に行く
                 吉井 勇
  冬の霧 両国橋も  あぼろなる



駒形橋
 駒形橋は他の橋と違って、橋の途中、欄干が半円にふくらんだ所があり、川を眺めるには人の通行を気にしなくていいので便利です。わたしは子どもの頃から 橋を渡るたびに、ここにたたずんで上り下りの船を眺めるのが大好きでした。白く泡立つ水脈を残して去る船の行手をいつまでも見送りました。
 『「あの橋は今度出来るこまがたばしですね。」 君はあいにく僕の問に答えることが出来なかった。駒形は僕の小学校時代はたいていコマカタと呼んだものであるが、それもとうの昔にコマガタと発音する ようになってしまった。「君は今、駒形あたりほととぎす」を作った遊女も、或いはコマカタと澄んだ音を、ほととぎすの声に響かせたかったのか知れない』 芥川龍之介は『本所両国』の中にこう書いています。
 さて、橋の名の由来は、台東区側にある駒形堂にちなんでつけられたものです。


白鬚橋
 木造の橋は、昭和6年に今の鉄橋に架けかえられています。隅田川にかかる多くの橋の中でも、とりわけがっしりとした橋で、白鬚という橋の名とは、とてもそぐわない感じです。なお、橋の西詰めの北側は荒川区、南側は台東区ですから、三区にまたがる橋といえましょう。
 白鬚橋については、宇野信夫も、永井荷風も作品の中に書いています。いずれも木造橋であったこと、橋銭をとっていたこと等書いていますが、そのため財布を忘れて渡りかけた橋を引きかえしたことも思い出になっているようです。
 橋の名は近くにある名社、白鬚神社にちなんでつけられたことは勿論ですが、白鬚神社の正面鳥居をくぐったすぐ左側に「白ひげ橋」と彫られた石の小さな橋 柱が転がっています。白鬚橋のものにしては小さすぎるなと思いましたが、これは当社の正面を流れていた小川に架かっていた小さな白鬚橋のものでした。
 さて、少し橋の上手あたりに、大正2年、330m2のガラス張りスタジオを持つ日活撮影所がつくられました。大正大震災の被害を受けるまで、数々の名画がここで生まれました。まさに向島こそ近代映画発祥の地と申せましょう。


言問橋
 この橋の言問(こととい)の名称は、伊勢物語の中心人物、在原業平(ありわらのなりひら)の歌の、“いざこととはん都鳥”の一区に縁をもっている。
 隅田川右岸の、待乳(まつち)山の聖天から浅草寺の大屋根につづく風景は、芸能の舞台では、隅田川を示す代表的風景のひとつであるとされている。
 左岸の三囲(みめぐり)神社や、長命寺や、旧水戸邸跡の公園につづく桜並木も、江戸以来の名所である。ここの上と下に、“竹屋の渡し”と“山の宿の渡し”があり、その中間に、大震災の復興事業として、昭和3年(1928年)にこの橋が架けられた。由緒ある橋である。
 昭和20年(1945年)3月10日の大空襲では、多くの犠牲者が出たところで、都民には忘れられない橋の一つとなっている。


横十間川にかかる橋
 横十間川は本所開拓の際に彫られた堀割で、現在では墨田区と江東区の境界となっています。この川の東岸に亀戸天神社が鎮座することから、天神川と呼ばれ たこともありましたが、川幅が当時十間(約18m)あったことから、横十間川と唱えられるようになりました。なお、現在の川幅は平均41mです。
 さて、柳島橋から南へ100mほど行くと昭和33年架橋の神明橋があります。この橋は江戸時代にはなく、その南200mの栗原橋もそうで、現在のは昭和5年の架橋です。
 栗橋橋はその近くに栗原紡績という工場があったので、その名がつけられたといいます。
 神明橋は、東詰にあった亀戸神明宮にちなんで名付けられました。この神明宮の別当寺は龍眼寺でしたが明治維新の際の廃仏棄釈で分離、神明宮の方は現存し ません。なお、龍眼寺は、一般には萩寺で名が知られ、昔のようではありませんが、今も萩の季節には訪れてくる人も少なくありません。芭蕉の句碑、国文学者 落合直文の歌碑があります。
   濡れてゆく人もおかしや萩の雨  芭蕉
 蔵前通りにかかる天神橋は、万治年間(1659年頃)の創架という古い歴史をもち、初めは亀戸橋と呼ばれていました。その後、亀戸天神社が造営されるに及んで橋名も天神橋と改め、川も天神川と呼ばれたといいます。
 天神橋は蔵前通りにかかるだけになかなか交通頻繁で、幅員も22mあります。天神橋の南400m弱のところに錦糸橋、さらにその南200mと近い松代橋、そのいずれもが地名をとって名付けられました。なお昭和5年頃の地図では、錦糸橋は神場橋となっております。


大横川にかかる橋
 大横川は業平橋の北80メートルで源森川につらなり、といっても今は埋立てられて分離していますが、南は江東区内に流れ、横十間川と合流、さらに南流して大島川につらなっています。
 大横川にかかる橋は区内だけで、12橋。その一番北にある業平橋から南へ平川橋、横川橋、紅葉橋と橋がありますが、いずれも大正末期から昭和にかけて架 けられた橋で、橋名も地名にちなんでいます。ただ紅葉橋だけはちょっとしゃれた橋名がついていますが、古くこのあたりに紅葉川という小さな流れがあったこ とから、この名がつけられたのでしょう。区内で一番南にある菊川橋も菊川という近くにあった川の名をとって名づけたようです。
 法恩寺橋は万治2年(1659)に架橋されたもので、同じ年に北横堀之橋と南横堀之橋とが架けられています。この二つの橋は後に北辻橋・南辻橋と、それぞれ橋名を改めました。
 法恩寺橋は、近くにある法恩寺にちなんだ橋名です。
 さて、堅川の新辻橋と大横川の北辻橋と南辻橋とを合わせて俗に撞木橋と呼ばれていた時代があります。三つ目の橋の位置関係が鉦をたたく撞木(T字形)の形に似ているからでしょうか。なお、現在は北辻橋が撞木橋と呼ばれています。
 法恩寺橋の南にある清平橋は昭和4年の架橋で、清水町(現・亀沢4丁目の一部)と太平1丁目を結ぶことから、この橋名が生まれたようです。
 京葉道路にかかる江東橋は、明治31年創架の比較的新しい橋ながら、幅員27mと国道に架かる橋らしい貫禄があります。この橋の西詰めは本所区入江町、東詰は柳原1丁目と呼ばれていました。


北十間川にかかる橋
 川筋で一番古く架けられた橋は、文花1丁目と江東区亀戸3丁目を結ぶ境橋で、万治2年(1659)創架となっています。昔の西葛西領の新田筋(南側)と 本田筋(北側)とを分ける所からこの名がつけられたそうです。この地に西から順に東武橋、京成橋、西十間橋、十間橋、境橋、福神橋とあり、創架はいずれも 昭和初期ですが、中には不明のものもあります。なお、環状四号線の小原橋は老朽化して人道専用になり、昭和51年に新小原橋が長さ40m・幅15mで架け られました。小原橋の長さ18m余・幅4m余とは桁違いです。


堅川にかかる橋
 堅川は、大横川・横十間川等と同じく本所開拓のために徳川幕府の手によって掘られた堀割で、両国橋の200mほど南で隅田川と連なり、それから東へまっすぐ5キロほど流れて旧中川に注いでいます。
 この堅川にかかる橋は区内だけでも13橋というかなりの数です。このうち隅田川に一番近い一之橋に始まって五之橋までは、本所開拓の時整備された一つ目 通りから五つ目通りという大通りに架かる橋という意味で名付けられました。したがってこれらの橋は万治2年(1659)にはじめて架けられたものです。
 さて、一之橋のとなりに架かる塩原橋は昭和3年にかけられたもので、勿論塩原太助にちなんで名付けられました。
 塩原橋の東に千歳橋があります。かつて堅川と小名木川(江東区)とを結んだ六間堀川がここからわかれていました。
 二之橋と三之橋の間には、西堅川橋、堅川橋、新堅川橋があります。堅川橋が明治12年創架で一番古く、他は昭和初期の創架です。また三之橋と四之橋との 間には、菊川橋、新辻橋、牡丹橋があります。新辻橋は元禄8年(1695)に本所深川築地奉行によって架けられたもので、他は、昭和初期の架橋です。関東 大震災の時、橋が少ないために被害を大きくしたという反省で、昭和初期に多くの橋が架けられています。
 堅川が横十間川と交わろうとする500mほど手前に松本橋がありますが、堅川の流れはこの橋の手前でせき止められていて、橋の下に流れはありません。



すみだ ハンディガイド
■発行日 平成4年1月1日・1版  平成11年1月10日・8版
■発行所 墨田区文化観光協会 より抜粋