墨田の歴史

墨田区の名称由来
 墨田区は、昭和22年(1947)3月15日に、北部区域の向島区と南部区域の本所区が一つになって誕生しました。
 そのときに、新しい区の名前として「墨田区」と名付けられました。それは、平安の昔から広く人々に親しまれてきた隅田川堤の異称“墨堤”の呼び名の「墨」からと“隅田川”の名の「田」からの2字を選んで名付けられたものです。

墨田区の立地
 地理的には、東京都の東部、江東デルタ地帯の一部を占めています。西は隅田川をはさみ中央区・台東区・荒川区に、北から東は綾瀬川・荒川・中川を境とし て足立区・葛飾区・江戸川区に、さらに東から南は北十間川・横十間川・堅川を境として、一部は地続きで江東区に接しています。
 区の形は南北にやや長く、東西約5km、南北約6kmで、面積は13.75km2あり、東京都23区中17番目の広さになっています。
 地形は、海面からの高さ最高4m、最低マイナス1.2mの平たんな低地で、地質はすべて砂と粘土まじりの沖積層です。

すみだの文化


両国国技館

 “川の手”という言葉が生まれています。“下町”という表現の是非が問われ、山の手に対する言葉として登場したものです。そんなとき、必ずクローズアッ プされるすみだ。その長い歴史のなかで培われてきたものをどう呼ぶかは別として、確かにすみだには、まちなみにも人々の気風にも、情緒豊かな心が息づいて います。産業のまちにあって、隅田川花火や国技館の相撲を誇りとするすみだの人々。今後も墨田区に住み続けたいという方は、8割以上を占めています。


隅田川花火大会


原始・古代
 人類の歴史がはじまった紀元前6千年ごろは、まだすみだは海の底でした。しかし、長い年月をかけて東京湾の入り江がひきはじめ、さらに秩父連峰、三国山 脈、日光連山などを水源とする数条の河川が運んだ土砂が、その河口に堆積して、土地が生まれました。これが墨田区の基盤になったのです。
 吾妻橋3丁目にあった業平塚、立花一丁目の吾嬬神社裏の塚は、出土品などから、先史時台の遺跡とされていますが、史実ははっきりしません。

中古・中世


多聞寺

 9世紀ごろになると、前に述べた河川の流路もほぼ定まり、その一つが「すみだ川」と呼ばれるようにありました。平安時代の古典・伊勢物語にある有名な故 事のくだりで「すみだ川」の名が記され、舟の上の在原業平が、「名にしおはば、いざこと問はむ都鳥」と詠んだとされています。  そして北部の堅い州周辺は、武蔵国と下総国を結ぶ渡河地点に発展しましたが、11世紀に綴られた更級日記にあるように、まだすみだ一帯は葦の生い茂った 武蔵野のはずれにすぎなかったようです。しかし、やがてデルタ地帯の肥沃な土地を利用して農業が営まれるようになります。
 12世紀には、源氏に従っていた葛西氏と、このあたりの豪族だった江戸氏に支配されていました。その後戦乱に巻き込まれることもありましたが、小田原の 北条氏が勢力を得るとその家臣の領地として、再びのどかな農村地帯に戻りました。当時の一端がうかがわれる文献によると、床や畳のある家は一軒もなく、男 女とも麻衣に腹帯、わらで髪を束ねていたということです。

近世


吉良邸跡

 湿地帯の南部開発は、明暦3年(1657)の振袖火事がきっかけでした。江戸はほぼ全滅、10万人余りの命が奪われ、幕府は湿地帯に焼死者を葬り、回向 院を建てています。そして防火対策中心の都市復興に着手し、万治2年(1659)には隅田川に両国橋を架け、市中に防火堤や火除地を設けました。この防火 計画に従って、武家屋敷などの移転先に選ばれたのが南部です。本所奉行を中心に、堅川・大横川・南北割下水開さくや区画整理を進めた結果、武家屋敷を主と する市街となり、江戸の一部をなしました。元禄15年(1702)、吉良邸へ赤穂浪士が討ち入り、主君の仇を報じた事件は、一大センセーションを巻き起こ しています。
 一方、北部は農村地帯のまま、江戸市民の食料供給地として歩み続けています。
 また、今でも時代を超えて全国の人々に親しまれている墨堤の桜、隅田川の花火、両国の相撲は、この期に誕生しています。江戸三大出水をはじめ水害に苦しんだすみだですが、文化・文政期には格好の行楽地として歌舞伎や落語の舞台になっています。


墨堤の桜


近代
 近代日本の出発点となった明治維新、すみだも新しい首都東京の一角として、新たな役割を果たすようになります。明治11年(1878)、南部は本所区と なり、北部は南葛飾郡に編入されています。当時の生産品といえば、南部では瓦、髪結具、ろうそくなどの日用品、北部では農作物でした。それが、河川に囲ま れた好適な立地条件や労働事情で、しだいに工業地帯化します。特に、紡績、精密工業、石けん、製靴が盛んになり、大正期には、輸出向けとして、玩具製造、 ゴム工業などが起こり、発展しました。
 一方、交通面では明治27年(1894)、hじめて現在の総武線が乗り入れるなど相次いで交通網が開けています。
 しかしあの関東大震災で、本所区は9割余りを焼き尽くし、焼死者4万8千人と、東京市全体の8割強に達する惨状となりました。やがて復興し、都市化が進 んだ北部には、昭和7年(1932)、向島区が成立しましたが、第2次世界大戦の戦火で再びすみだの7割が廃きょと化し、6万3千人の死傷者と30万人近 い罹災者を出しています。


東京都復興記念館


そして、いま
 第2次世界大戦が終わって間もない昭和22年(1947)、本所・向島の両区が一つになり、墨田区が誕生しました。当時の人口はわずかに14万人でした が、やがて焼け跡にも住宅や工場が建ち、産業のまちとして復興してきました。同28年(1953)には工場数が戦前を上回り、商業面でも飛躍を遂げ、30 年代の高度成長期を迎えます。急速な経済発展のなかで、工場には新技術が導入され、大型店舗やスーパーも進出、道路などの生活環境も急速に整備されまし た。しかし人口は、昭和38年(1963)の32万6千人をピークに減少傾向をたどり、高齢化が進みます。
 区ではこの間、まず学校などの教育施設の充実から区民生活向上のための施設や環境改善に取りかかり、福祉施設や文化・算調子説などの増設、下水の暗きょ化や道路・護岸の整備、公園の増設、緑化の推進などを着々と行ってきました。
 たび重なる災害にもめげず今日のすみだを築いてきた人々。明日の墨田区を築き、さらに飛躍させることは、私たちに与えられた課題だといえます。


現在のすみだ

すみだダイジェスト 1999
■企画・発行 墨田区
■編集 墨田区企画経営室広報広聴担当 
すみだ ハンディガイド
■発行日 平成4年1月1日・1版  平成11年1月10日・8版
■発行所 墨田区文化観光協会 より抜粋