かつしかの 地理と自然
葛飾区は、東京都の最も東側にあり、利根川・中川など大小の河川が土砂を運んで形成した沖積平野である東京低地に位置しています。
◆かつしかの誕生 約1万年前、氷河期が終ると海水面が上昇する縄紋海進という現象によって、約6千年前には奥東京湾と呼ばれる海が、現在の栃木県にまで入り込んでいました。 海水面が低下し、葛飾区を含む東京低地が姿を店始めるのは、今から約2千年前の弥生時代のころです。 このころ葛飾一体に移り住んでいた人々は、川沿いの少し高い所に住み、農耕や魚を採って生活を営んでいました。文献史料に『葛飾』の名が登場するのは奈 良時代のことで、東大寺正倉院 (奈良県)に伝わる養老5年 (721年) の『下総国葛飾郡大島郷戸籍』が最も古い資料です。
◆水との戦い 葛飾は東に江戸川、西に荒川・綾瀬川、中央に中川が流れており、水にかかわりの深い地域です。 そのため、葛飾の土地に住む人々は、いつの時代も川から生活の糧を得たり、川を交通手段として使うなど、身近な川を暮らしのよりどころとしてきました。しかし、大雨による川のはんらんなどたび重なる水害ももたらしてきたのです。 関ヶ原の戦いによって全国を統一し、江戸に幕府を開いた徳川家康は、これまで洪水を引きおこしてきた利根川の東遷事業に着手します。東京湾 (江戸湾)に注いできた利根川の流れを、関宿 (千葉県) から東に移し、銚子 (千葉県) から太平洋に注がせることによって、水害を防ぎ耕地を増やすとともに、利根川と江戸川を結んだ船による内陸交通網が整備されました。 江戸時代の中期には、水害の防止と田畑のかんがい用として、利根川の古い流れをせきとめて、小合溜が造られています。 近代以降も、洪水を防ぐための事業が続けられます。 葛飾の西を流れる荒川は、明治43年の洪水を契機に放水路として開削が計画され、昭和5年に完成しました。また、戦後間もない昭和22年には、関東地方 を直撃したカスリーン台風では、豪雨によって利根川の堤が破られ、中川に沿って埼玉県の低地を下ってきた洪水により水元桜堤が決壊し、区内全域が20日間 にわたって水につかる大きな被害となりました。 こうした苦い経験を経て、昭和38年には中川放水路、昭和45年には上平井水門が完成、さらに下水道の普及などによって、水害は次第に少なくなってきました。
◆かつしかと水 大小の河川は、長きにわたって水害という被害を人々に与えてきました。しかし、その一方で人々は川から大きな恵みも得てきたのです。 美しい環境もその恵みの一つ。葛飾の水と緑の調和した景観は、多くの文人・芸術家たちに深く愛され、奈良時代の昔から題材を提供し、人々の心に潤いとやすらぎを与えてきたのです。
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