かつしかの 歩んできた道
◆かつしかの由来 弥生時代には、すでに人々の生活の地となっていた葛飾。柴又や立石などには、古墳時代に築かれた古墳なども残っています。 奈良時代の7世紀後半には、国・郡・里が設置され、葛飾を含む地域は下総国を構成する郡の一つ『葛飾郡』として成立しています。また、江戸川の対岸の台地には国府や国分寺は設置され、葛飾付近は下総国の中心的な地域だったことが分かっています。 さて、『かつしか』という名はどのようにしてできたのでしょうか。その語意については、さまざまな説があります。古語では『かつ』には丘陵やがけ、『し か』には砂洲などの意味があります。古代の葛飾郡は、現在の東京東部地域や千葉県西武から茨城県南部におよぶ、古利根川 (現在の中川) に沿った低地や下総台地などの広い範囲でした。『かつしか』の語源はその地形の特色からきているとも考えられます。 平安時代後期になると、古代の葛飾郡は解体され、南部の太日川(ふとひかわ) (現代の江戸川) より西側を葛西、東側を葛東と呼ぶようになります。葛飾は葛西地域にあたり、その葛西地域を開発したのは、恒武平氏の流れをくむ葛西氏です。葛西氏は鎌倉時代になると、その所領を伊勢神宮に寄進し、葛西御厨(みくりや)と呼ばれる荘園が成立します。
◆近世の葛飾 江戸時代、中世の葛飾を含む周辺地域は『葛西領』 と呼ばれ、そのほとんどは江戸幕府の直轄領となっていました。新宿には水戸佐倉道の宿場が置かれ、また江戸川をはさんで江戸の東の交通の要所として、金町・松戸関所が設けられました。 人々の行き交いが活発になると同時に、新しい村も誕生し、さまざまな産業も発展してきました。東新小岩のフノリ、金町・青戸の瓦などの土器製造、東四つ木の鍛冶などが営まれ、葛西用水や上下之割用水(かみしものわりようすい)など水の利を生かした、米作りや小松菜などの野菜作りで、大都市江戸を支えてきました。 江戸時代後期からは、堀切の菖蒲園、柴又帝釈天などが観光スポットとして広く知られ、多くの観光客が葛飾を訪れ、豊かな水の織り成す美しい景観に魅了されていったのでした。
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