かつしかの 変わりゆく暮らし
◆近郊都市へ 明治時代になると、葛西領は小菅県などを経て東京府となり南葛飾郡に属しました。明治22年には、江戸時代の36カ村が市制町村制により、金町・奥戸・水元・亀青・南綾瀬・立石の六つの村と、新宿町に統合されました。 明治29年には常盤線が、明治30年には総武線が開通し、交通網も次第に整備されていきました。 人々の暮らしの中にも、郵便局の開設や学校の設立など、近代かの波が影響を及ぼし始めました。銀座や丸の内のレンガ街づくりに使われた、レンガ工場が小菅にできたのもこのころです。
◆工業の発展 大正時代になると、それまで静かな農村地帯だった葛飾に大きな変化が起こります。 大正3年に、渋江(現在の東四つ木)にセルロイド工場ができたのをきっかけに、次々と工場が建てられ、おもちゃの生産が盛んに行われるようになりました。 また、川や水路を利用した製紙や染織工業も発達、関東大震災の後には都心部からたくさんの職人が移り住み、一段と工業が発展をとげるようになりました。同時に人口や住宅も増え、現在の葛飾の姿に近づいてきたのです。
◆戦争を経て 昭和7年、七か村町が合併し東京市葛飾区が誕生しました。現在の立石図書館の場所にあった旧本田町役場に区役所が置かれ、葛飾区としての第一歩がここに始まったのです。 太平洋戦争中やその直後は、物資の不足などで区民は苦しい生活を強いられました。ようやく新しい生活が見えはじめた昭和30年代には、金属関係などを中心とした町工場が次々と建てられます。 一方、工業化が進むにつれて農村としての景観が失われ、商工業へと転業する農家も多くなりました。 昭和31年、青戸に23区初の高層住宅ができたのを皮切りに、区内には大規模な集合住宅が建てられ、また、人口の流入とともに住宅が増え、現在に至っています。 葛飾は、急激な発展を遂げたとはいえ、まだ豊かな自然を残し、さまざまな産業と人々の暮らしを育んでいます。これまで歩んできた歴史を大切にし、これからの21世紀を歩んでいきたいものです。
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